
『史上最強の哲学入門』(飲茶著)の冒頭はプロタゴラスという古代ギリシャの哲学者の紹介から始まる。プロタゴラスは絶対的な真実などなくて、全ては人それぞれの立場によって変わるもの=相対的なのだと主張した、とある。
プロタゴラスは、当時の政治家たちを相対主義で論破したそうだが、相対主義にそんな力があるのだろうか?
なんとなく負のイメージを受ける相対主義について考えてみた。
相手の主張を相対化するってどういうこと?
討論の場に置いての相対主義というのは、相手の主張に対して相対的な見地から反論する。
大抵の主張というのは完璧ではあり得ない。全ての見解を網羅しているわけでもない。だから、どこかに不足した部分がある。
相対主義は、その不足した見地から相手を攻撃する。
「SNSの普及で、個人を誹謗中傷する人が増えた」
「それはあなたの感想ですよね?データはあるんですか?」
「……。でも、SNSがない時代に比べたら他人を攻撃しやすくなったはずだ」
「自分の身を隠して、安全なところから他人を平気で傷つけるような人は、SNSができる前からいた。SNSのせいでそういう人が増えたわけじゃない。現象が顕在化しただけだ」
正当に思える相手の主張にも、どこかに網羅していない見地が必ずあるわけで、相対主義はそこを攻める。
相対主義って信念がないってこと?
Aの主張に対してのBの反論があり、両方の主張から更に優れたCの見地が生まれる。そういう論法を弁証法というと思うが、相対主義は弁証法の反論の役割に似ている。
相対主義が相手の主張に対しての反論であるならば、先ず相手の主張がなければ成立しない。
相対主義は最初に主張できない。何もないところに最初に提案することができない。
更に、相手が変われば、相手の主張によって相対化するわけだから、相手によって反論も変わってくる。
従って、相対主義を唱える者の主張を長い期間で観察すれば、主張に矛盾があったり、主張に一貫性がないことがわかってくる。
ただこれは相対主義に確固とした信念がないと言うよりも、相対主義というのは本来変化する性質のものと見た方が正しい。
相対主義を唱える者は、信念という絶対的なものにも疑いを抱いている。
「それはあなたの思い込みですよね?勝手にそう信じているだけでしょ?それが真理だと証明するものはあるんですか?」
相対主義には、絶対的なものを疑い、絶対的なものを信じないという信念がある。
相対主義は論破に強いのか?
相対主義は、いわば後出しジャンケンと同じで、相手の手の内を見てから都合の良い作戦を立てられる。
ただ、何でも相手の主張の反対のことを言う「逆張り」とは違う。誰でもうなずくような正論に、予想外の反対意見を、奇をてらうのを意図的して主張するのが逆張りだ。
相対主義とは、相手の正論の不備なところを突くのであって、反対のための反対ではない。
むしろ、相対主義の反論に回答を見出せれば、正論は更に強化される。
相対主義は相手の主張を打ち負かすというよりは、主張の不備を指摘するといった方が正しい。
「お金では買えないものがある」
「それはあなたの思い込みですよね?お金で買えなかったものがあったのですか?」
「ええ、愛とか友情はお金では買えませんよ」
「そうじゃなくって、あなたは愛や友情をお金で買おうとしたことがあるんですか?」
「勿論ないですよ、そんなこと」
「それじゃ、愛や友情がお金で買えるか買えないか分からないじゃないですか?」
「そんなこと分かりきったことですよ」
「分からないですよ。買えるかもしれませんよ。何しろあなたは試していないのですから」
これは論破しているのではない。相手の主張の盲点を突いただけだ。突かれた点に答えを返せれば、主張は強化される。決して論破されたのではない。
論破するって何だろう?
「論破」という言葉はよく耳にするが、私にはしっくりこない。
多くの場合、「言い負かす」という意味で使われているように思う。
どうでも良いような主張には「論破」など大げさな気がする。論破とは、相手が絶対の信念で主張してきた場合に限って使うべきだ。
誰もが認め、誰も反対する余地のないような正論に対して、その正論を相対化して見つめ、正論の不備を突く。
相手の主張が絶対的な真理のように見えるほど、相対的な反論は光を放つ。
誰も反論出来ないようなバリアを破るのが論破だ。
ユダヤ人の排斥を叫ぶヒットラーの前で、「ユダヤ人の中に良い人も悪い人もいるよ。それは我々ドイツ人にとっても同じことだよ」と言えたら論破になる。
論破は、時には命がけなものになる。論破とはそれぐらい大きなもので、めったに使えるものではない。
参考文献:
コメント