
古代ギリシャの哲学者ソクラテスの弟子にプラトンがいる。彼が唱えた「イデア」という存在の考え方は、若かった私の記憶に強く刻まれた。
50年も前の学生の頃に読んだ樫山欽四郎の『哲学概説』は、哲学の歴史的な流れを初心者にも分かりやすく説いた名著で、中でもプラトンのイデアについて語ったところが印象的だった。
今また、飲茶氏の書いた『史上最強の哲学入門』のプラトンの章を開いてみて、「プラトンはすごいな」、「プラトンは全く古くないな」と感じた。
改めて、プラトンの説いたイデアについて考えてみた。
ソクラテスの無知の疑問だけではたどり着けない真理
相対主義哲学者プロタゴラスに対してソクラテスは、自らを無知と称して疑問を投げかけた?
「それは何か?」、「どうしてそうと言えるのか?」
疑問を重ねていくと、必ず未知の領域に突き当たる。しかしそれは論駁したことにはならない。
知らなかった、未知であったことが分かったに過ぎない。未知の先にあるであろう真理は、疑問の果に存在する保証はない。
永遠に新たな疑問が現れてくる。
ソクラテスの弟子のプラトンは、そのことに気がついたのだと思う。
「いくら疑問を重ねても、絶対的な真理にはたどり着けない」
「いや、進歩は疑問から生まれる」
と反論があるかもしれない。科学の進歩は疑問を解明しながら発達してきていると。
しかし、科学は真理そのものではない。例えば核融合の技術は平和的にも軍事的にも応用されて開発が進んだ。
それらが果たして善なのか悪なのか決定できない。これからも更に開発が進化していくだろうが、永遠に善か悪かの判断はできない。
科学などの物質的なものだけでなく、思考的なことについても、新たな疑問が生まれ、その答えに対してまた疑問が生じて発展を続けていくに違いない。
全てのことが、疑問の連続の中で発展を続けていくが、絶対的な真理にはたどり着けない。
真理は求める前から在ったもの
プラトンのイデアの存在の考え方が画期的なのは、絶対的な真理は求める以前から存在しているというものだ。
イデアについて飲茶氏の三角形の比喩がわかりやすい。三角形という概念は誰でも知っている。紙に描くこともできる。しかし、本当の三角形を描くことはできない。それは線というものは幅を持たない概念だからだと。幅のない線を描くことはできない。
本当の三角形は見ることも描くことも出来ないが、本当の三角形のイメージは確かに存在する。このイメージがプラトンの考えるイデアだ。
車や飛行機も人間が発明したように思っているが、それらのイメージ=イデアは元々在ったものに過ぎないという考え方だ。
ちょっと信じられないかもしれないが、世界の歴史を振り返った時に、遥かに離れた交流もない地で、同じような人間の営みが見られるのは偶然ではないような気がする。
人間など存在する前から、人間が発見、発明してきたもののイデアは存在していたと考えると腑に落ちる思いがする。
全ては人間が作り出したというより、元々在ったものを見つけ出したと言うべきだ。
果たして良心は誰の心にも存在するのか?
私はイデアというのは善であると思う。イデアが真理と同じであるならば、真理も善でなければならない。
真の三角形のイデアをイメージして、紙に三角形を描いてみるように、人間は善なるイデアを現実化してきたが、それらは真の三角形ではないのと同様に、善なるものでは必ずしもなかった。
ただ、重要なことがある。善なるイデアは誰にもイメージできるものなのではないかということだ。
この時私は、「良心」というものは誰の心にも存在するのか?と考える。
人を傷つけたりした時に自然と湧き上がる罪悪感はどうして存在するのか?
良心という善なるイデアが、厳然と存在している証拠としか思えない。
困っている人や弱いものを見た時に、守ってやりたいと思う心が起きるのは、善なるイデアが元々誰の心にもあるに違いないからだと思う。
イデアという真理の証明は信じることだけ
勿論、イデアのような存在を証明することは出来ない。
世の中の不誠実なことや卑劣なことに憤ったり、悲しい出来事に同情したり共感するのは、誰にも共通するイデアとしての良心を備えていると考えるのが合理的だ。
共感の度合いは人によって差があるが、その差はどこから来るのかと考えた時、私は信じ方の度合いの差だと思う。
自らの心の中に存在する良心を信じる度合いの差だと思う。自分の良心を信じない者は他人の良心も信じない。
プラトンの唱えるイデアの存在は、信じることでしか証明できない。
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