
先日、契約しているJ:COMのオンデマンド(VOD)で、「見放題」(無料)の中のある外国映画を観ていて、強く感じたことがあった。
フェリーニの『道』
『道』(監督:フェデリコ・フェリーニ、1954年)という題名の古いイタリア映画だ。
小さな幌付きの荷車をオートバイに繋げて、イタリア中をどさ回りしている大道芸人の男と、貧しい家に生まれて、仕方なく口減らしのために男に売られた少し知的な障害を持つ娘が主人公。
いかつい体で横柄な態度の男と、純真で汚れを知らない娘は、二人だけの旅回りの中でやがて惹かれ合っていく。
男にどなりつけられながら、見せかけだけでも「妻」のように扱ってくれるのが、娘には嬉しかった。
しかし、男が誤って同業の綱渡り芸人を殺してしまったことが、娘には精神的に耐えられなかった。その芸人は娘に同情して優しく接してくれていたからだ。
綱渡り芸人の死によって言動がおかしくなった娘を持て余した男は、娘を置き去りにして去ってしまう。
後になって、置き去りにした地に戻った男は、娘が死んでしまったことに後悔の涙を流す。
「真実の瞬間」とは?
自分はこの映画の何に心が動かされたのか?と考えてみた。
それはストーリーの展開とか結末よりも、真実を垣間見た瞬間ではないかと思った。
その瞬間とは、親しくしてもらっていた芸人を男が殺してしまっただけでなく、芸人の死体や車を隠して逃げたことが、娘には許すことが出来なかったこと。
男の乱暴な性格や大酒のみの生き方は、垣間見せる優しさに比べれば何の問題にも感じられなかった。
娘にとって、人の命を奪って逃げてしまったことが耐えられなかった。
以前から男と綱渡り芸人は仲が悪かったが、男は決して殺すつもりで殴ったのではなかった。
綱渡り芸人の方も深い悪意があって男をからかうのではなかった。綱渡り芸人の悪ふざけは、むしろ男への親しみさえ感じさせる。
綱渡り芸人が偏見にとらわれず、娘の汚れない心の美しさを認めていたことも、失われた命の大きさを強くさせる。
娘の悲しみは、綱渡り芸人が常に死を覚悟した生き方をしていた純粋さによっても深められる。
綱渡り芸人のひょうきんで明るい振る舞いは、高いロープの上から落ちて死んでしまう恐怖の裏返しのようにも見える。
繊細で優しく、いたずら好きな綱渡り芸人と、胸に巻いた鋼鉄の鎖を切る力わざを持つ、乱暴で頑固な男との対比も、突然の死というものを際立たせる。
命のはかなさ、暴力の恐ろしさが、失ったものの大きさを印象付ける。
私が感じた「真実の瞬間」とは、尊い生命なのか正義の在り方なのか愚かな人間の罪なのか、何が訴え掛けてきたのか厳密には判然としない。
ただ綱渡り芸人の死をめぐる娘の深い悲しみが、「真実」という何かを訴えてくる。
普段は隠れていたものが、突然と姿を現す真実。
私はこの真実の瞬間のために、映画の全体が用意されていると思った。
物語には「真実の瞬間」が絶対に必要なのだ。
優れた物語が成立するには、必ず「真実の瞬間」がなければならない。
「真実の瞬間」があることで、物語のどのような些細なエピソードも、その瞬間のために存在する役割を得る。
物語はどう作るか?
ところで、物語はどのような工程で作れば良いのだろう?
- 登場人物と背景を用意する。
- 登場人物と背景にとっての問題を考える。
- 問題を解決させるために登場人物を動かす。
- 問題解決の過程で「真実の瞬間」を見つける。
- 「真実の瞬間」がもたらす最も感動的な結末を考える。
この作り方でいくと必ずしも問題は解決しない場合もあり得る。
『道』という映画も、問題は解決していない。中心となる登場人物たちの綱渡り芸人は殺され、娘も置き去りにされて死に、男は罪の後悔に泣き崩れる。
男のような生き方をしてはいけない、娘や綱渡り芸人のように優しく清らかに生きなければならない、というメッセージを伝えるという問題解決なのかも知れないが、重要なのは「真実の瞬間」が有るか無いかにある。
物語には「真実の瞬間」必ず必要なのだ。
参考文献:
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