私は人格者に見られたい!目立ちたくないけど、嫌われたくはないから

プロフィール
人格者に見られたかった

私は人格者に見られたいと思ってきた。

この思いは子供の頃からあった。

私は口数が少なく、いつも人の後ろの方に隠れているような子供だった。それは、自分に自信のない表れだった。

そのくせ、人からどう見られているかをいつも気にしていた。悪い評価を受けたくないから、目立たないようにしていたのだと思う。

近所の子ども達と遊んでいる時も、みんなの輪の外から、まるでテレビを一人で眺めているように、冷めた目で観察していた。

どういうことが人に気に入られることなのか?どんなことが人を不愉快にさせるのか?

そういうことをよく思っていた。

私の子供の頃(昭和30年代半ばから後半にかけて)は、遊びといえば外遊びが中心で、小学6年生から5歳ぐらいまでの一団で遊ぶことが多かった。

年かさの子供は、幼い子供も仲間に入れて、「味噌っかす」というハンデを与えて、すべての遊びに参加させてくれた。

かくれんぼなどの遊びでは、味噌っかすは最初に見つかっても鬼にはならなくてよかった。

そういう集団の中で、私は人から好かれることや嫌われることを気に留めていた。

年上の子供の中に、いつもみんなを笑わせる男の子がいた。明石家さんまのような存在で、笑いに次ぐ笑いを取って、いつもみんなを楽しませてくれていた。

子供が少ない時に、私も真似して笑わせようとしたが、まったく笑いは起きなかった。私にはそういう才能がないことを悟った。

笑わせることに限らず、人には生まれつき備わった才能があるのだと思った。

「自分にはどんな才能があるのか?」

私は目立つのを好まず、それでいて自己承認欲求が人一倍強かったから、常に周囲を観察しては、どうしたら自分の思いを解消できるのかを意識していた。

「好かれる人とは?」

「嫌われる人とは?」

そんなことばかり気にして周りを見ていた。

ある時、みんなの輪の中で、いつもと違って馬鹿に陽気に振る舞っている子供がいた。

その子供を指して上級生の子が冷めた声で言った。

「人バレんなよ」

「人バレル」とは私の地方の方言なのか分からないが、無理しておどける様子を戒めた言葉だということは理解できた。

子供でも、無理した行いは虚しく感じることが出来たのだ。

私は自分を誤魔化してまでも好かれようとするのは醜いと思った。

だから私は出しゃばらずに、それでいて周りから一目置かれるような人間になりたかった。

饒舌よりも沈黙に魅力を感じた。「男は黙って…」みたいな姿に憧れた。

黙っていても、静かにしていても、威厳のあるような、何かを内に秘めているような、そういう人間になりたいと思った。

私の理想の人格者とはそういうイメージだった。

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