
18世紀にイギリスのヒュームという哲学者が、全ての真理はそれまでに経験したことを組み合わせて作り出した概念に過ぎないと唱えた。
水が高いところから低いところへ流れるのは引力が働いているからだが、この引力の存在は経験によって認識したに過ぎないというわけだ。
高いビルから鉄の玉を落とすと、鉄の玉は下に落ちることは誰でも知っている。しかしこれは、人間の長い歴史の中で、「物を離すと下に落ちる」という経験の繰り返しから得た認識に過ぎなくて、もしかしたら「物を落とすと上に昇っていく」可能性を否定できないという制約付きの認識だ。
経験論では、厳然とした真理が前もって存在するのではなくて、経験によって初めて認識するものだとしている。
プラトンのイデア論は、経験など関係なく真理は既に存在している。元々存在している真理を、人間は発見するに過ぎないと考える。
私は、プラトンのイデア論を擁護する立場だが、ヒュームの経験論にどう反論すべきか窮するものがある。
果たして真理は、経験とは無関係に絶対的に存在するのか? あるいは経験によって初めて真理は得られるものなのか?
発見は経験の積み重ね
もし地球上に初めて登場した人間が独りいるとして、リンゴが木から落ちるのを一度見ただけだとしたら、二回目も下に落ちるかは断定できない。
リンゴが何度も落ちるのを経験した後に、「物は下に落ちる」という真理を得ることができる。
これが宇宙空間での経験であれば、「物を落としたら空中を浮遊する」という真理を得ることになる。
確かに何度も経験した後でなければ、「必ずこうなる」という真理は得られない。
人間が真理を発見する過程は、経験の積み重ねによるしかないことは認めざるを得ない。
経験は真理を発見するに過ぎない
区別しなくてはならないのは、経験は真理を発見することであって、真理を創造することではない、ということだ。
リンゴが落ちるのを見る経験は、引力という真理を発見したのであって、引力を創造したわけではない。
人工知能を利用して高度なロボットを作ったとしても、数々の発見した物理や数学の原理=真理を寄せ集めて作り上げた物に過ぎず、個々の数学や物理の真理を作ったわけではない。
経験によって発見した真理は、知識として蓄えられて利用されるが、どんなに新しい物を作り上げても、一つ一つの真理自体は発見したものであって作り上げたものではない。
引力の法則は経験として発見できても、どうして引力というものが存在するのかということは、依然として分かっていない。
同様にして、真理を発見しても、どうして真理が存在するのかは分かっていない、ということが言える。
存在理由が分からないものを、人間が創造できるはずもない。
だから、真理は人間など関係なく、初めから存在しているものと考えざるを得ない。
人間が出来ることは、経験を通して真理を発見することだけだ。
真理を正当と判断するものは何だろう?
それでは、存在理由も分からない真理が、本当に正しいのか正しくないのか判断することはできるのだろうか?
真理が存在する理由が分からなくても、存在することは経験的に認識することは出来る。
同じような理屈で、理由が分からなくても正しいか正しくないか判断できるのではないかと、私は思っている。
リンゴは木から落ちるのと同程度の確信性で、真理が正しいかどうか判断できると思っている。
例えばこんな風に表現できるのではないか。
リンゴは木から落ちる。同様に、人を殺してはならない。
リンゴが木から落ちるのは当たり前と認識できるのと同じ程度に、人を殺してはならないのは当たり前と認識できる。
真理の存在理由は分からなくても、真理の正当性は認識できると思っている。
このように、真理の正当性を認識するのは経験によるものなのだろうか?
現実世界を見ると、リンゴは依然として木から落ち続けているが、人は殺されまくっている。
リンゴが木から落ちる真理は正当性を持って認められているのに、人を殺してはならないという真理は、正当性に不完全な認識を持たれている。
この両者の違いは何だろう?
真理の正当性を認めないもの
人間にとって、操作できる真理と出来ない真理があるからではないか?
リンゴが木から落ちるのを、人間には操作できない。
一方、人を殺してはならないという真理は、人間には操作できる。
人を殺してはならないということが、正当な真理であったとしても、「真理ではない」と否定できてしまうからではないか?
凶悪な犯罪者を死刑に処するのは、人を殺してはならないという真理には反するが、被害者の感情や罪の償いを考慮すれば、真理に反することが許される。
これは真理が不完全なのではなくて、真理に反することを「許容する」かどうかの判断だと思う。
人を殺してはならないという真理は正当だと思う。これはリンゴが木から落ちるように、理由は分からないが、経験的にそう認識するからだ。
世界中で人が殺されているのは、真理に反することが許容されているだけで、真理が否定されているのではない。
真善美に代表されるような真理は、人間とは関係なく存在すると私は考える。
真理を認めないことは可能だが、それでも真理自体は厳然として在ると強く思っている。
プラトンの説くイデアという真理の存在を、まだ私は否定できない。
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