
不思議なもので、肉体は成長して衰えても、意識は少年の頃のままなのだ。
というより、意識というのは生まれた時から既に備わっているように思える。
前に輪廻転生を私は信じていると言ったが、意識も魂と一緒に引き継がれていくのだと思う。
だから、生まれたばかりの赤ん坊だって、前世の成熟した意識を内に持っているのだ。
人のわずかの長さの一生で、意識や魂がそれほど変化するとは思えない。だから、私の意識や魂が70歳を過ぎても少年の頃のままでも不思議ではない。
別に宗教的な話をするつもりはないが、やはり人間は何かの目的を持って生まれたくるのだと思いたい。
こんな無能な私にも、何かの目的を持って生まれてきたはずだ。残念なことに、生まれた途端にその使命を忘れてしまったようだ。
よく考えると、生まれた目的や使命を忘れるのにも意味があるように思う。
生まれ直して、前世の失敗や反省を乗り越えながら、その過程で目的や使命を自覚するように仕組まれている気がする。
私はこれまではっきりした人生の目的を持っていなかった。それどころか、目的すら考えたこともなかった。
いや、考えようとしたことも何度かあったが、直ぐに現実の選択に迫られて、考えることを放棄したと言った方がいい。
もし、若い頃に人生の目的を真剣に考えて、その目的に向かって生きていたら、もっといい人生だったに違いないと思う。
しかし、今更後悔しても意味がない。いや、後悔には意味がある。人生は一度きりじゃなく、何度も生まれ変わると信じるなら、後悔をするのに遅いことはない。
では、70歳を過ぎた私の生まれた目的は何だろう?改めて考えてみる。
両親はとうに鬼籍に入ってしまって親孝行もできない。振り返れば実に親不孝な息子だった。恥じ入るしかない。
自分勝手で他人への思いやりに欠けた子供だった。大勢の人たちに不快な思いをさせてきた。
そんな私にも生まれてきた目的を考える資格があるのだろうかとも思う。
しかし、それでも、今更でも、どうしてもそういうことを考えなければならないのだ。このままで人生を終わるわけにはいかないのだ。今からでも、少しはましな人生に軌道修正したいのだ。
人生の目的というと大げさかもしれない。夢という言葉に置き換えてもいい。もちろん大きな夢などではない。
私が思い浮かべる一番心休まる自分の理想の姿は何だろう?
勿論、現実とかけ離れた夢ならいくらでも描けるが、ここでいう夢とはもっと現実に近いものだ。
やはり、こういう姿が今の時点で描ける私の夢だ。
「ささやかでも、何か人の役に立てる人であること」
どんなことで役に立てるのかは分からない。とにかく人の役に立てるような人間になれるように、勉強なり、仕事なり、遊びなり、人付き合いなり、何でもいいから、「人の役に立てる人間になる」という方向に向かって生き方を変えてみたい。
これまでの生き方を変える、これが70歳を過ぎた私の夢だ。夢の中身は少年の頃とは大分変わったが、私はまだ淡い夢を抱いている。
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