何をやっても長続きしなかったのは、結果を求めてしまったからか?

プロフィール
何をやっても長続きしなかった

私の70年の人生を振り返ると、実に情けなくなる。最も残念なのは、何事も飽きっぽくて長続きしなかったことだ。

中学のクラブ活動は、最初に入った陸上部は3ヶ月で辞め、次の野球部も半年で退部し、3つめの水泳部では幽霊部員となって過ごした。

大学生の時に買った「リンガフォン」というテープレコーダー付きの英会話教材は、ほとんど使わずにホコリをかぶり続けた。よせばいいのに、その後に申し込んだ英会話教室は、高い授業料を払って一度行っただけで続かなかった。

社会に出てからも、英会話や英作文の教科書で勉強しようと何度も繰り返したが、なんの成果もでない内に全て本棚の片隅に追いやってしまった。

英語は自分には向かないけれど、中国語や韓国語ならもしかしたらと挑戦したが、やはり同じことで長くは続かなかった。

プログラミングも面白そうだと思って、教科書を何冊も買って挑戦したが、どれも中途半端なところで諦めてしまった。

「もしかしたら、自分には文才があるかもしれない」

と根拠もなく思い立ち、今度は小説を書いてみようと思った。

大学ノートや原稿用紙を買ってきて、小説の書き方も分からずに書き始めても、起承転結もない独りよがりの作文止まりで断念してしまった。

私はこんなことを、何十年も繰り返してきたのだ。実に情けない。

「どうして長続きしないんだろう?」

根性がないだけなのか?こころざしが低いのか?自分に甘えているのか?

それでも子どもの頃は、暗くなるまで外を飛び回って遊んでいた。近くの山で竹の弓矢を作ったり、秘密基地を木の上に作ったり、川でザリガニや小魚を釣ったり、広場で缶蹴りやかくれんぼをしたり、夢中で楽しかった。

楽しかったから飽きなかったのか?

私が大人になってどれも長続きしなかったものは、みんな楽しくなかったからなのか?

しかし、全く楽しくなかったら何度も繰り返すことはなかったはずだ。少しは楽しい部分があるから、同じことを繰り返したのだと思う。

子供の頃に夢中で遊んだことと、大人になって夢中になろうとしてなれなかったことには、どんな違いがあるのだろう?

考えてみると、こどもの頃に遊んだ夢中さは、何の目的もなかったと思う。ただ楽しいから遊びたかっただけだ。

大人になってからやろうとしたことは、どれも結果という目的を持っていた。その目的としての結果が出ないから嫌になって続かなかったのだ。

もしかしたら、結果とか成果を期待しないで、ただ面白いからやる、という心づもりなら続くのかもしれない。

そう、結果を求めないで、面白いと思える範囲でやる。

それから、だらだらでもとにかく続けるのが大事だと思う。結果を求めるから続かない。だから結果なんか出なくても、止めないで続けることが重要なんだとつくづく思う。

もし、40年前から、30年前から、20年前から、だらだらでも、なんとか止めずに続けていたら、今とは違う結果になっていたに違いない。

「結果を求めず、楽しいと思える範囲で、だらだら続ける」

このやり方なら、もしかしたら私でも長続きするかもしれない。

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