
大学に入った年、映画サークルが構内で主催した『裸の十九才』という映画を観た。
駐留米兵の住宅に侵入して盗んだピストルで、タクシー運転手など4人を連続的に射殺する事件を起こした19才の少年の実録的な映画だった。
自分の悲惨な家庭の境遇や差別的な社会に不満を持ち、連続殺人を犯した主人公が言ったセリフ「生きてやる、せめて二十歳(はたち)のその日まで」という言葉を覚えている。
当時の私も丁度19歳だったので、二十歳まで生きることの意味を考えたりした。
平々凡々と、何の目的も、何の問題意識も持たず、思考停止状態でさまようように生きていた私には、生きる意味を考える資格もないように思えた。
そんな私も70歳も生きて来てしまった。ポテチン。
生きるだけなら馬鹿でも可能なことを証明したぐらいしか、私が70年も生きた意味がないように思う。このままでは。だから、
「このまま人生を終わりたくない!」
還暦(60歳)を過ぎたあたりから、こう思う気持ちが次第に強くなってきた。
年を経ないと、この焦るような気持ちにはなれなかった。しかし、そう焦りながら何もできなかった。
60歳からの10年でも、私は何も出来なかった。70歳からの10年で何かを出来る保証はない。ただ焦る気持ちがあるだけだ。
大きなことは勿論できない。せめて小さなことでも、何かを思い立って、「やった!」という手応えを感じたい。それだけのことなのだが、中々思うようにいかない。
根気がなくて、飽きっぽい私が、何かを得るためには努力が必要だが、努力だけでも長続きしそうにない。
結果が出なくても続けることが重要だと思うようになった。
- 結果や成果を考えない。結果でなく続けることに努力したい。
- 自分の価値を少しでも高めて、何かに役立つことをしたい。
- 楽しいと思える工夫を考えたい。楽しいに重点を起きたい。
立派な目標でも、苦しい努力は長続きしないことは十分に分かっている。だから立派な目標は立てない。結果も求めない。
今出来る小さなことを、小さな楽しめることを、コツコツ、途切れさせずに続けたい。直ぐに結果が見えなくてもいい。
そういう風に続けていけば、5年後、10年後に、何かの手応えを感じられたら満足だ。
とにかく続けたい。
「生きてやる、せめて120歳のその日まで」ポテチン。
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