考えること

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ヒュームの経験論の前にプラトンのイデア論は耐えられるのだろうか?

18世紀のイギリスの哲学者ヒュームは、真理は経験したことを組み合わせた概念に過ぎないと唱えた。プラトンのイデア論を擁護する私は、経験とは真理を発見するプロセスで、真理そのものを創出するものではないと思っている。イデアは存在すると信じている。
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デカルトの「我思う、故に我在り」はそんなに意義のあることなのか?

デカルトの「我思う、故に我在り」は、「思う」自分の「存在」は疑いようもないことを証明したという。しかし、思うが思うまいが、真理は初めから存在していると私は思う。大事なことは、「何を」思うか?「誰が」思うか?を問うべきで、自分が何を思うかだ。
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プラトンが在ると説く絶対的な真理=イデアの存在を証明するものは?

哲学者プラトンが唱えた、イデアという絶対的な真理が元々存在しているという考え方は、私が世界を理解するのに腑に落ちることが多かった。良心という善なるイデアも、元々誰の心の中にも在るはずだと思っていたからだ。イデアの存在は証明できるのだろうか?
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ギリシャの哲学者プロタゴラスの相対主義から論破とは何かを考えてみた

論破って何だろう?ギリシャの哲学者プロタゴラスは、政治家との討論に相対主義の見地から挑み勝利した。不完全な人間には神のような絶対的な主張はできない。相対主義は不完全な人間にとって有利な論法に見える。ただ、簡単に論破などと言って欲しくはない。
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答えの無いことを考えたい!他人のでなく自分の答えを求める欲求とは?

虫けらの勤勉さにも嫉妬する無能な私でも、答えの無いことをボンヤリ考えている時は、一瞬でも自分らしさを実感できる時がある。答えが溢れかえる世界の片隅で、他人の答えに満足できない自分がいる。答えの無いことを考えたいという欲求はどこから来るのか?