デカルトの「我思う、故に我在り」はそんなに意義のあることなのか?

考えること
デカルトの「我思う、故に我在り」はそんなに意義のあることなのか?

『史上最強の哲学入門』(飲茶著)によれば、デカルトはそもそも数学者で、数学の公理(誰も否定できない事実、例えば直線は決して交わらないなど)から新しい事実(例えば三角形の内角の和は180度である)を見つけて定理とするようなやり方で、誰もが否定できない根本的な原則を哲学においても追求したそうだ。

そこでデカルトは、全てのことを疑ってみて、最後にたどり着いた、「疑っている自分が存在することは否定できない真実」だという結論に達した。いわゆる「我思う、故に我在り」だ。

Je pense, donc je suis(仏語)
I think, therefore I am(英語)

「存在」の証明よりも「思う」ことの方が重要では?

確かに、「思う」自分は否定できないから、自分が存在することは証明できるかも知れない。でも、そのことにどれ程の意義があるのだろうか?

たとえ自分の存在が証明できたとしても、肉体は有限的な存在だから、死後にもその存在を証明しつづけることは可能なのかと疑ってしまう。

50年、100年の間は可能かもしれないが、500年、1000年後まで可能だろうか?

価値があるとすれば、「存在」よりも「思う」ことの方だと思う。デカルトにしても、デカルトの存在自体ではなくて、デカルトが思ったことが価値を持ち続けているのではないだろうか?

存在という観点からしても、デカルト自身の存在(生身の肉体)などもはやどこにもなくて(遺体という意味では、フランスのパリのパンテオンというところに安置されているらしいが)、デカルトが思ったことの価値は確実に存在し続けている。

「存在」より「思う」ことの中身

例えば「三角形の内角の和は180度」という定理は、古代ギリシャの数学者タレス(紀元前624年〜546年頃)が証明したという説や、その約250年後の古代ギリシャの数学者ユークリッドが体系的に証明したという意見などあるが、「三角形の内角の和は180度」という事実自体はもっと古くから知られていたようだ。

つまり誰が思ったということよりも、思ったことの内容の方が存在意義が高い。

私がプラトンの「イデア」(全ての真理は原初から存在している)という存在の考え方に惹かれるのは、個人の存在自体よりも、思うことのの中身=真理に価値を感じるからだ。

私は、誰が真理を発見したかということよりも、発見した真理自体に価値があり、未知の真理も、いずれ誰かによって発見されるべきものだという認識を持っている。

未来においてデカルトの存在など忘れられても、「我思う、故に我在り」という原理=真理は存在し続けるに違いない。

「思う」ことや「存在」より「真理」?

プラトンの言うように、「イデア」という真理が前もってあるとすれば、誰が思ったとか、誰が発見したとかいうことに大きな意味があるとは思えない。

石器時代に生きた人たちは、その存在だけでなく彼らの思ったことさえ確実に知ることは出来ない。

彼らの存在や思いは想像するしかないが、彼らが石器などの道具を使って狩りをしたり農耕したりして、必死に生きたということは、現代人にとっても生きることは必死だという点に置いて共有できるから、直感的に信じられる。

彼らが集団を作って助け合い、また他の集団と争いながら生きたと信じられるのは、現代の我々にとっても、同様にしか生きられない真実だと共感できるからだ。

永遠のような時間を貫く普遍的な共通体験という事実は、真実となって、真理と呼ばれる。

人間のことだけでなくて、世界や宇宙を含めて、全ての真理は初めから存在していると私は信じているのは、周りのあらゆることが、共通する体験によって貫かれているからだ。

「人を傷つけたり嘘をついた時には、どうして誰でも罪悪感を覚えるのだろう?」
「人の役に立てたり感謝された時には、どうして幸福な気持ちになるのだろう?」

どうして誰にでも共通する感情が、あらかじめ誰の心にも存在しているのだろう?

ニュートンが万有引力を発見する前から、万有引力は存在していたし、アインシュタインが発見しなくても、相対性理論の真理は最初からあったはずだ。

だから、デカルトが求めた自分の存在など証明しようがしまいが、真理はそんな証明などと関係なく存在していると感じるのだ。

人間の思い上がりを感じてならない

例えば血を吸って生きている蚊は、「我思う、故に我在り」などと考えるだろうか?

そんなこととは関係なく、蚊は今日も世界中で飛び回っている。

蚊にとっても人間にとっても、万有引力は等しく存在している。蚊がどう思うと、人間がどう思うと関係ない。

真理は人間の存在などと関係なく存在しているわけで、「思っている自分の存在は否定できない原理だ」など規定することに意味があるのだろうか?

では、思うことに全く価値がないかというとそうではなくて、真理を発見しようとする行為には価値を感じる。

問題は、発見した真理を、自分のもののように勘違いしてしまう思い上がりだ。

それでも最後は「思う」ことと「存在」が問われるのか?

「思う」ことは、発見した真理を善にも悪にも変えることができる。

核分裂(原子核に中性子をぶつけるとエネルギーが得られる)や核融合(原子核どうしを高温・高圧で融合させるとエネルギーが得られる)という真理は、「思う」こと次第で善にも悪にも利用できる。

だから、真理を本来の価値あるものとして具現するには「思う」ことの質が問われる。

更には、その「思う」ことを「誰がする」かということにつながってくる。

独裁者が「思う」ことを独占すれば、真理の存在すら意味を失ってしまうことになる。

だから、「誰が」思うのかが最終的に重要になってくる。

「誰が」という個人の「存在」に意味が出てくる。

ここまで考えてみた時、デカルトの唱えた「我思う、故に我在り」の意味が、現実的な意味に思えてくる。

「何を」思うか? 「誰が」思うか? ということが問われているように思えてくる。

権力を持たない無力な個人でも、他人の思ったことに迎合するのか、自分の思いを貫くのか、「何を」思うかによって、自分の「存在」が意味のあるものになる。

「我思う、故に我在り」

参考文献:

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