
私はいつか大成すると信じている。70歳を過ぎても、何の根拠もなくそう信じているのだ。
若い頃何かの占いで、「あなたは大器晩成タイプで、晩年に隆盛を迎える運命です」みたいな言葉を、未だに信じ込んでいるのだ。
根拠のない希望。
それでも、それだけでも、生きていける。70を過ぎても希望があれば生きていけるのだ。
しかし流石にこの歳になると、座視しているだけでは希望も虚しくなってくる。
何らかの努力、今までしてこなかった程の心構えで努力をしなければと思う。
淡い希望にも根拠を準備しなければならない。結果は実らないかもしれないけれど、希望の火を消さないように準備をしなければならない。
私は無宗教だが、神様や死後の世界、輪廻転生を信じている。
生き様や努力は、たとえ今生で結実しなくても、それらは生まれ変わっても引き継がれる、と信じている。
世の中に天才と呼ばれる人がいるが、そういう人は前世で相当な努力をした人だと思っている。だから天才を特別視する必要はない。誰でも努力を積み重ねれば、そういう人生を送れる未来がいつかはやってくると信じている。その未来まで何回生まれ変わればよいかという問題だけだ。私はそんなふうに人生と努力を考えている。
だから、私の希望というのも、遥かに遠い未来へと照らしている。70歳から後の死を迎えるまでの時間ではない。この先、何度も生まれ変わる遠い未来へとつながっている。
若い頃、漢文の授業で、『少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず』という言葉があった。
その頃は自分の老いた姿など想像することもできなかったが、まさに「光陰矢のごとし」で、あっというまに古希を迎えてしまった。本当に時の経つのは速い。
そういえば、こういう思い出がある。中学のホームルームの時間に、担任から「好きな言葉を書け」と言われて、私は『努力』とだけ書いて出したら、担任が「ほほー、努力か、すごいな」と言ってニヤリとしたのを思い出す。
担任の先生の「ニヤリ」の表情に、当時の私は誇らしいものを感じたが、今ではその真意は、「こんなカッコつけやがって、努力なんかするわけないだろ」ということだったろうと分かる。
それほど、努力というのは大変なエネルギーのいることなのだ。「努力」なんて口に出している間は、努力などしていないぐらい大変なことなのだ。
だから、なるべく生まれ変わる回数を減らして、努力が花開く人生を迎えるには、努力を真剣に取り組まなければならない。
70年の努力を合わせても大した積み重ねではなかったから、これから本当に心を入れ替えて取り掛かる必要がある。
高校の数学の授業で『ベクトル』というものを知った。確か大きさと方向を持ったものの考え方だったと思う。
私も希望というベクトルを持ちたい。そのベクトルは遥か未来の自分に向かっている。方向は間違えないと思うから、あとはベクトルの大きさを努力で増やすしかない。
こんな綺麗事を言っている間は、たいした努力を未だしていないのだろう。それでも、ただ努力と思うしかない。
コメント