
これは私の醜い部分なのか、それとも良い面なのか分からないが、「私を軽視している奴らを見返したい!」という欲望がある。
もし、私が全力を出し切って生きてきたなら、こういう気持ちは持たないだろう。
試合前には睨み合っていたボクサーが、血しぶきを浴びながら打ち合い、倒れるまで戦いきった後に見せる、あの清々しさが私にあったら、見返したいなどという不満は起きないに違いない。
湿った葉っぱのように、いつまでも燃え上がらずにくすぶり続けるこの思いは、何がしかの成功を手にするまで終わらないだろう。
「私にとって成功とは何だろう?」
人並みにお金を稼ぐことなのか?清く正しく美しく生きることなのか?
それに、どうやって見返せば良いのだろう?
他人から何がしかの評価を受ければ良いのだろうか?
「やはり中身だ。私自身の中身の変化が問題だ」
他人の評価というのは、自分の中身が変化すれば結果として自然と付いてくるものだ。
私の考えはいつも同じところに戻ってくる。
「問題は自分の中身を変えることなんだ」
70歳まで手応えのなかった者が、はたしてこれから、何かを手にすることが出来るのか?
70年掛けても出来なかったことが、これからの残った時間で出来るのか?
そうだ。ここで私の逃げ道は、「輪廻転生」という生まれ変わりの考えだ。
今生で時間切れで終わっても、次の生まれ変わりに引き継ぐというずるい考えだ。
しかし、この思いがあるから、いつまでも努力しなければという気持ちになれるのも本当だ。
「他人を見返したい。だから自分を変えなければと努力しようとする」
綺麗事に聞こえるかもしれないが大真面目なのだ。
「他人から軽視されないような自分になりたい。そのためには努力するしかない」
「努力」というのは「女(おんな)」の「又(また)」に「力(ちから)」と書く。
女性の出産のイメージが努力だとしたら、実に生きることに根付いた素朴なもので、浮ついた綺麗事ではないものだ。
だから、努力というのは、息を吐き出すように当たり前に、自然なことと思えばいい。
努力は特別なことではないのだ。ご飯を食べて糞をするように自然なものと考えるのだ。
自分の中で努力している自分を感じられたら、私の他人を見返したい気持ちも薄れるだろう。
そうならなければ、私の努力が足りないというだけだ。
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