
いくら年齢を重ねても、自分が虫けら程の価値もない人間だという意識は変わらない。
いや、虫けらの方が、いつ見ても自分のやるべきことをわきまえて忙しそうに動き回っている。
私は70を過ぎても、自分が何をなすべきなのか、はっきりとは分からないでいる。
「自分は何をやるべきなのか?」
「自分は何をするために生きているのか?」
虫けらにも劣る存在の私が、唯一優位にあるのが、思い悩むことかもしれない。勤勉な虫けらたちは決して思い悩まないだろうから。
もっとも、思い悩むことが幸せかどうかは別だ。思い悩まない方が、むしろ幸せなのに違いない。
ただ、人間として自分に全く価値を見いだせない私としては、思い悩むことにしか自分の存在感を得られない。
思い悩むとは、はっきりした答えのないことを考えることだ。答えのないことを考えたいと欲求する自分は、確かには存在するものとして自覚できる。
ところで、答えの無いことを考えたい欲求とは何だろう、と考えてみた。
自分の中に無限の広がりを感じたい欲求
親しい友人知人が皆無の私の住む世界はとても狭い。狭いことに不満はない。あえて狭い世界に閉じこもる様に生きている。
人間は矛盾したもので、好んで選択した狭い世界で生きることが、本当に求めることとは反対だったりする。
子供の頃に観た学園ドラマのような世界に憧れたり、世界を自由に旅する人を羨んでいる。
私の奥底の心は、広い世界に羽ばたきたいと願っているのだ。
私が、答えの無いことを考えるのは、自分の中に広がる世界を感じて見たいからなのだ。
宇宙が無限の広がりを持つように、自分の心の世界にも無限の広さを感じることができる。
私の想像力は、過去から未来へまたたく間に駆け巡り、地球を瞬時に移動するように意識は自由に動き回る。その自由さは、会ったこともない他人の心の中にさえ、想像力で忍び込むことができる。
狭苦しい現実世界では全く価値のない私にも、内的な思考空間を自由に飛び回っているという感覚の手応えが、かろうじて私を支えてくれる。
周りの世界への疑問を解き明かしたい欲求
情報が溢れすぎて、本当のことが分かりにくくなっている現代は、他人の提供した答えに満足するどころか、容易に得た答えは更なる答えを渇望させ続ける。
周囲の溢れかえった答えには決して満足はしないのだ。それらの答えは、所詮は他人の答えだからだ。
人は自分の出した答えにしか満足できない。私はそう思う。
一日中、スマートフォンに向かって答えを求め続けても、決して満足することはない。いくら探しても、そこには他人の答えしかないからだ。
他人の答えを探すのは簡単だから、取り憑かれたようにせっせと探し回っても、本当の満足は得られない。
私は自分の答えが欲しいと思う。
その答えがたとえ陳腐なものであっても、自分の出した答えという手応えがあれば満足できる。
確かに自分で答えを見つけるのは面倒だ。なぜなら自分で答えを出すには疑問を持たなければならない。
疑問は思考の出発点だけれど、答えにたどり着くまでには、何度も疑問を出し続ける必要がある。
「どうして郵便ポストは赤い色をしているのだろう?」
この疑問に対する他人の答えを探すのは簡単だろう。スマートフォンで検索すれば直ぐに見つかるかもしれない。
私が言いたいのは、そうして簡単に得た他人の答えに満足するのか?ということだ。
「目立つだけなら黄色でもいいはずだ。あの赤い色には何か因縁じみた歴史を持っているように思える。あの赤い色は争いごとの血の色と関係があるかもしれない。赤十字の旗にも同じような根拠を感じる。戦場を駆け巡って連絡を取り合う役目の人たちのシンボルとしての赤い色。そういう血の色に結びつくメージを想像してしまう。あの赤い色には多くの人の犠牲があるように思えてならない」
こんなふうに考えをめぐらして、自分の答えを探し求める方が、私の満足度は高い。
たとえ正しい答えだとしても、他人の答えは満足度が低いのだ。この例は適当ではないかもしれないが、私は自分の周りの世界への疑問を、自分の答えで解き明かしたい欲求がある。
自分の独自性(オンリーワン)を確認したい欲求
1980年頃
、当時の若い世代の人たちが、「目立ちたい、目立ちたい」と叫んいたのを覚えている。
髪を金髪に染めたり、派手な服装をして、私から見たら十分目立っているのに、そういう若者が「目立ちたい、目立ちたい」と叫んでいた。
外見をいくら装っても、決して目立つことが出来ないことを彼らは証明していた。
奇異な目で見られることは、目立つことではないことは彼らにも分かっていた。目立つということは何なのだろう?
2000年代に入って間もなくの頃、『世界に一つだけの花』という歌が流行った。
「ナンバーワンよりオンリーワン」という考えは新しいものではなかったが、時代の欲求にかなったのだろう。
かつての「目立ちたい」とは、「オンリーワン」であることを認めて欲しかったのかもしれない。
だけれど、オンリーワンと他人に認めてもらうことも、自覚することも私には難しいことに思えた。
花も咲かない私には、とても自分をオンリーワンなどと思い上がることが出来なかった。多くの人が同じ様に感じたと思う。
しかし、70を過ぎた今、オンリーワンを感じられる瞬間を見つけた。オンリーワン、つまり独自性を自分に感じられる瞬間だ。
それは、これまで話してきた「答えの無いことを考えている」瞬間だ。
自分だけの答えを探し求める行為は、オンリーワン、独自性を探し求める行為と重なる。
自分だけの過去の体験、考え方、想像力から解き明かした答えは、自分の独自性を表し、自分がオンリーワンである感覚をもたらしてくれる。
他人の答えに溢れた世界の中で、自分の独自性(オンリーワン)を確認したい欲求を、ささやかではあるが満たしてくれる。
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